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自分という人間を紐解いていくと、その痛さに目を覆いたくなってしまう事が多々。 あのときの自分は何を思ってそれを考え、成したのか。 誰しも振り返った過去に悶絶する瞬間があるだろう。 その都度それに後悔をするのだけれど、いくら後悔をしても人間の本質は変わらない。 結局また似たような失態を晒して、また悶絶をするのである。 時間は常に流れ続け、決して止まることはない。過去に逆行することは出来ない。 しかし過ぎ去った過去も、その流れにある瞬間は未来であり現在である。 この世の全てのモノは等しく未来に干渉することが出来るが、 過去に対してはせいぜい捏造する程度しか手を出せないのだ。 自分の過去に悶絶する瞬間において、その選択に悶絶することは少ない。 人生に悔いる人は少ないのだ。むしろ社会への恥を悶絶の原因とする人が多い。 未来は常に複数の道を示し、人は其れを 時に己の意志で、時に流れの中に身を寄せ、時に第三者に其れを委ね、 それが確定された流れであったとしても、自らの意志で常に道を選んでいる。 選択肢とはAかBかなどと言った単純なモノではなく、 その瞬間にある己の意志により形成されているのである。 人は選択の内容に後悔しない。その瞬間の意志に後悔するのだ。 けれども、それは例え後悔になったとしても、悶絶には至らない。 大抵の悶絶の原因は自己表現の失敗にある。 こんなその場その場の思いつきで、精神状態がどう考えても万全じゃなかったり、 むしろ唯のノリや流れに乗っただけの、 私にとって汚点の連続でしかないのではないかと思えるような、 そんな失敗した自己主張の固まりであるこのブログを、これからも確実に、 失敗を連続させていくだろう事は間違いないのに、まだまだ続けようとする私は何。 自分の生きた証とか、その時の考えのまとめとか、そういう言葉を使うには値しない。 生きた証とは常に、己以外の第三者の胸に宿るモノであって、 自らが示し出す代物ではないのである。 その時の考えのまとめとしても、全く何も考えず、その場その場の思いつきを、 強引にごった煮し、一件其れらしい形にまとめているようなモノがほとんどで、 その真の形、人に伝えられるような形として練られたモノは何もない。 あくまで自己満足。脳内で行うべき自己表現をアウトプットし、 その内容の稚拙さに、自らが笑いたいがためだけに刻まれる文章。 これは、まさに自虐そのものの行為ではないか。 つまり簡単に言うと。 このブログのほとんどは無責任によって構築されていると言う事である。 何を今更ー^^ これまで私はこんなトンデモ内容なブログを書き続けてきたわけだけど。 後何年くらいここを更新し続けているのだろうか。 2~3年くらいはまだしぶとく更新を続けていそうな気もする。 でも10年後にここが残っているという保障はない。 私がブログを続けようとしても、何らかの理由でそれが不可能になる可能性も捨てきれない。 ネットが規制されるとか、戦争が起こってしまうとか、まあ理由は何でもいいんだけど。 私はいつまで、こんな無責任な私でいられるのだろうか。 そして、このブログが10年以上と続いたとして、 正気の沙汰じゃないけど、死ぬ直前までこれを書き続けたとしたら、 私の死後にこれを見た、例えば私やその子孫とかそんなのは、 一体どんな感情に見舞われるだろうか。 自分自身ですら数年前に書いた記事を、いや、下手をすると数日前の記事にすら、 激しく悶絶を覚えるというのに、果たして10年後の私は、今の私をどのように見るだろうか。 私が私を積み重ねていくうちは、その微妙な変化に気がつくことはないだろうけども、 私が今の立場ではない私になったとき、 下手をしたらこのブログを消しちゃうんじゃないだろうか。 都合が悪いモノは抹消、みたいな。 ここで「私はこれからも紆余曲折色々あるだろうが、可能な限りブログを続けていきたい」 などと書くことは、あまりにもお決まりのパターン〆となるので避けたい。 ということで。 年内にブログをたたむかー^^ ウソっすー^^
by unnyo8739
| 2007-12-19 12:00
| 日誌叙情駄文
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