|
「何だって?」 あまりの唐突な一言に、思わず耳を疑った。 「だから御座候」 「……」 目を伏せる。言ってることが分からない。 事の始まりは、付き合って三年になる彼女の一言だった。 バイトから帰って、一息つこうとした矢先の彼女からの電話。 「ねえ、悟君。来週の火曜日に、御座候で待ち合わせね」 ほら、聞いたら絶対僕と同じ反応をせざるを得ないだろう。 「御座候って何だよ」 「え、御座候だってば、知ってるでしょ?」 「知らないよ、そんなの」 「うっそ……」 鞄を床に放り出し、尻のポケットから煙草を取り出すものの、ライターが見つからない。 どうってことのない日常に苛立ちを覚える。 「うっそ、じゃないよ。知らないモノは知らないんだから」 ライターを探しながら答える。 「でも知ってないとおかしいんだって」 ため息が出た。 彼女はいつもこうだ。何でもかんでも勿体ぶった言い方をする。 どうしてすんなり疑問に答えてくれないのだろう。 ライターはまだ見つからない。苛立ちが頂点に達する。 「あのさあ、そういう勿体ぶった言い方はすごくムカつくんだけど。もっとさ、すっきり言ってくれないかな」 明らかな不愉快をぶつけてみる。けれども彼女は何処吹く風で、 「そうは言うけど、絶対悟君知ってるはずなんだよ。知ってないと駄目なんだよ」 引き下がらない。 ライターは見つからない。僕は乱暴に立ち上がると、 ほとんど使ったことのないキッチンへと足を運び、 ゴミに埋もれていたガスコンロを使って煙草に火をつけた。 ふうと紫煙を吐き出す。この間約三十秒。 この三十秒のうちに僕は改めて自分自身を整理する。 「……オーケー、分かった。つまり君が言うに、僕はその、御座候? って奴を知ってるって事だな?」 「うん」 「でも僕はそれに心当たりがない」 「ちょっと!」 声に怒気が混ざっている。けれども僕はそれを無視して言葉を続けた。 「そこでだ。お互い妥協をしよう。僕は君と喧嘩をしたい訳じゃないし、君も僕と険悪になりたいわけじゃあないと信じてる」 「そりゃあ……」 いい感じに食いついてきた。にやりとしてしまった口元を引き締める。 大きく息を吸って、吐いた。 「ヒントをくれ」 「ヒント?」 「ああ、ヒントだ」 「ヒントって言われても……」 「残念だけど、僕は本当に覚えてないんだよ。でも覚えてないっていうことは、今はただ、忘れているだけに過ぎないって言うことだ。人間の記憶なんていい加減なモノだからね。大事なことであっても、さっくりと忘れてしまうもんだ。けれども不便なだけじゃない。簡単なヒント……、何かきっかけがあれば案外簡単に思い出せるものさ。だから僕にヒントをくれないか」 「いいけど、本当に覚えてないの?」 明らかに不愉快そうな声。けれども僕は本当に分からないのだ。ここは妥協できない。 「うん、ごめん」 妥協は出来ないけれども、強気になれない。まあ僕が覚えてないんだから当然なんだけど。 受話器の先で小さくため息が聞こえた。 「分かった。ヒントは来週火曜が何の日かってこと。これ以上のヒントは出さないから。しっかり考えて、ちゃんと思い出してよね!」 プツッ。ツー、ツー、ツー……。 唖然呆然立ちつくした。 なんてこった。電話を切られてしまった。あのまま口先三寸、だらだらと質問をして、彼女の方からボロが出るよう誘うつもりだったのに。 「困ったなあ、来週の火曜日が何の日かだって? そんなの知らないよ……」 気がつけば煙草は既に半分が灰になっていた。ごそごそと灰皿を探すものの見つからない。結局どうしようもないままに灰は落ちてしまい、床を汚した。苛立ちはぬぐえない。 彼女の電話があって後、気がついたら既に三時間。相も変わらず僕は「御座候」が思い出せないでいた。その間僕は、共通の友人やら何やらに、やたら電話をしまくって「御座候」が何かを問うて回った。けれども結局誰もそれが何であるか、答えを出してはくれなかった。友人の中には明らかにそれが何かを知っているような様相の奴もいたのだけれども、 「これは自分で思い出した方がいいよ」 と、皆が皆言うのだ。 「大事なことなのかもしれないけど、本当に思い出せないんだから仕方ないだろう。むしろ思い出せないことの方が、遙かに問題だと思うんだけどなあ」 誰にともなく独り言を言う。 「三年か」 付き合ってから早三年。これまでそれほど大きな喧嘩もしたことないし、問題になるような事も起きていない。今までがそうであったように、これからもずっとこの関係を続けていられるものだと思っていた。 「きっかけは何だったかなあ……」 瞬間。 頭の中が恐ろしいほどクリアになる。周囲から音が消えていく。耳に響いてくるのは、三年前の彼女の声。 「悟さんが甘党とは知らなかった」 「甘党って程じゃないんだけどね」 それは三年前の今頃の季節。 いいや、もっと具体的に言うと、来週の火曜日にあたるあの日。 あの日の僕は、いつも以上にすごく緊張してたのを覚えてる。 だって。 その日は自分の気持ちを彼女に打ち明けて、僕たちが恋人同士になった日なのだから。 そして、あの日一緒に入った最初の店が……。 「御座候……!」 慌てて携帯を探す。彼女に謝らないと。けれども慌てれば慌てるほどに捜し物は見つからない。バイトから帰ってからそのまま放置した鞄の中だっけ? いいや、その後彼女と電話してたじゃないか。じゃあ煙草と一緒に何処かにおいたのか? 違う。さっきまで煙草は手元にあって……。 ああ、もう! ――ピンポーン。 そんな矢先、玄関チャイムがやかましく鳴り響いた。 「くそっ、誰だよこんな時に……」 苛立ちが頂点に達している。このまま居留守を決め込もうか。 そんなことを考えている間に、もう一度チャイムが鳴った。 「うるさいなあ、今出るよ!」 乱暴に玄関を開ける。 そして絶句。 「……こんばんは」 「……やあ、上がりなよ」 彼女だった。 「電話、ちょっと乱暴だったかなって思って」 俯いたまま言う。 「いや、いいんだ。僕こそ、ごめん」 小さく笑う。 「来週の火曜日でもいいけど、どうせなら明日も御座候、行こうか」 「え!」 彼女の顔がぱあと明るくなる。 「これからも宜しくね」 「……うん、よろしくね」 今日はもう、携帯を探す必要はない。
by unnyo8739
| 2007-10-16 17:45
| 僕俺私小話
|
Comments(2)
|
ファン申請 |
||