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というわけで。 最近の日本人は海外に進出しすぎた。 一人二人程度なら別にともかく、ここ最近はどんどん海外へと進出していく。 海外に出て行く→才能、能力がないと無理 そんな流れがありつつあり、 そしてそれは間違いなく事実であるのだろうけども。 ということはつまり。 日本における才能の高い人たちが、 どんどん海外に流れていってしまっているということになる。 所謂才能の流出。これってどうなの。 スポーツやら何やらであれば、まだそれはマシな部類になるだろう。 むしろ広い世界に挑戦してくるという考えは、皆の理解も集めやすい。 しかし、その結果が散々であれば、結局戻ってきても散々だったりしそうだが、 それは自己責任だろうから、まったく問題はない。 むしろ頭脳が世界に流れるのは問題ではないだろうか。 日本の優秀な技術者が、国内の閉鎖的、旧世代的な会社から抜け出して、 新進的な海外の企業に進出する。 もともと方々で学んできた知識を、国内でなく海外にて活用する。 時代が時代ならスパイ容疑で逮捕→射殺されそうだ。 とにかく何がいいたいかというと、日本人は海外組に理想を求めすぎているように思う。 特に音楽とかが顕著なのではないか。 日本にそれらしい音楽の基が乏しいからと、 海外でちょっと流行っている音楽をやってみる→ すると物珍しさか海外への憧れからか、それなりにウケる→ しかしあくまで時代の流れの一貫的なものでしかなく浸透することなく廃れる→オワタ。 毎回思うんだけど、日本語のラップって、物凄くリズムに乗った念仏にしか聞こえない。 青臭目の救いのあるっぽい言葉が、まさに念仏クオリティ。 むしろ念仏にリズムを加えてやれば、 ラップのクオリティを瞬間的に超えるんじゃないだろうか。 ノリノリな坊主をちょっと見てみたいぞ、私は。 ノリノリな陰陽師なら観たことあるけどな。 今R&Bとかカルビーとかが結構歌われたりしてるけど、 あれって和田アキ子とジャンルが同じわけである。 何で和田がダメで、新しい歌がいいのか。 むしろ和田に歌わせろ。 などと、思う事は多々あるのだが、あえてそれを大口開いて述べる事は出来ない。 日本人は革新的に新しいものを受け入れるように見えて、 実は非常に排他的であり、自分達とは違うものを受け入れないという、 自分の価値観に固執する民族なのである。 故に日本の若者にはオタクとヤンキーしかいない。 言ってみて、改めて日本人が抱く自分と他人の間にある壁の巨大さに気がつく。 これがATフィールドって奴か。 まあそれはともかくとして。 キモ試しって言葉があるんだけれども、漢字で書くと「肝試し」である。 「肝」とは心、気力を指す「胆」という漢字からきているものである。 大体の人が肝試しと聞いて理解できると思うが、ようは度胸試しである。 それはいいとして。 最近の日本語は乱れている。肝試しも漢字で書かれるのではなく、 キモ試しなどと、カタカナを交えたりしている。 するとどうだろう。 一部のちょっとアレな人々から、「キモいところに行って何があるか試す」という、 そんなかなりアレな解釈を取られてしまいかねない。 これは私の創作ではあるが、実際こういう解釈をしている人が今現在いないとも限らない。 日本語は本当に乱れてきているのだ。 古いものに固執せず、常に新しい風を受け入れる事は、 進歩や進化において必須必然である。 しかし、それを受け入れていく上で、古い知識も正しく扱わねば、 ただの頭の弱い人になってしまいかねないのだ。 学ぶという事は、知るということだけではない。 受け継ぐという事も含まれている事に気がつかねばならない。 あるものを正しく受け継ぎ、そして新たなるものに生かす。 これこそ正しき進歩なのである。
by unnyo8739
| 2007-08-09 10:35
| 日誌叙情駄文
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Comments(2)
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花たる
at 2007-08-09 14:30
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念仏ラップ=ゴスペル>天使にラブソングを みたいな感じか
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unnyo8739 at 2007-08-10 09:46
この映画はカトリック教会を舞台としており、その音楽は多くが聖母マリアについて歌う為、多くのアフリカ系アメリカ人クリスチャンの観点からすれば、マリア信仰の無いプロテスタントの文化であるゴスペル音楽とは本質的に違うものである。しかしながら、結果的にこの映画の中の一ゴスペルナンバー、「Oh Happy Day」がゴスペルブームの火付け役となった事もあり、日本ではこの映画で歌われている音楽全体をゴスペルであるとする考えが浸透してしまっている。(wikiより)
神社で念仏唱えてるような感じだな。
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