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八月という季節のせいもあってか、戦争に関する本をよく見かける。 その概要は様々であり、私はどれも手にとっては無いが、 総じて「戦争はよくないだろ、やっぱ」と言う事でも書いてあるのだろう。 戦争に大儀を付属させるのは常に権力者であり、例えそれが正しかろうと悪かろうと、 乗じようと乗じまいと、結果として不毛なのが戦争なのである。 戦犯がどうだの、過去がどうだのと色々語られている。 それらは確かに大事かもしれない。戦争を犯した国として罪を償うべきかも知れない。 しかし、いつまで償えばいいのだろう。 一部の人間の犯した罪を、国民全体が償わなければならないなんて、 まるで税金と同じだ。本当のところ意味が無いんじゃないか? などと思ったが、何かを信じ、戦い、尽くした全ての人々を前にして、 こんな台詞は吐けないなあ。反省。 動物は生存競争の中で生きている。食うか食われるか、厳しい世界である。 しかし彼らは同属と殺しあう事は無い。子孫を残していくのに不都合だからだ。 同族同士で殺しあうのは、人間だけである。 と、何処ぞの誰かが言っていた。 なるほど、確かにそうなのかもしれない。 しかし戦争を行う際に、大抵対立するのは民族同士のそれであるから、 あながち人間同士の戦争も、生物の世界では当然のことなのかもしれない。 生物は戦う。争う。生きる事それそのものが戦いであり、競争である為だ。 目的はただ一つ。自分がいかに生き残って子孫を残せるか。 これにつきる。 戦争もこれと同じかもしれない。人間は考える葦であり、理性的な生物であるという。 しかしやはりそのような人間も、腹が減れば飯を食う。本能は常に語りかけるのだ。 自分の国がいかに生き残り、強く繁栄していくか。 人は獣ではない、などというが、その根底はやはり動物であるように思う。 争いの原因は、大半が互いの主張が通らないときに発生する。 そのほとんどが些細なことである。 傍から見たら、どうして争うのか分からないほどの事もある。 譲歩するなら争わない。譲歩しないから争うのだ。 大人の対応ができない。受け流せないのである。 相手が折れた途端、ここぞとばかりに言いたい放題な人間もいる。 それを行えば行うほど己の愚かさを晒すわけである。 しかし争う人はどうしても譲歩に応じない。それは何故か。自分を守る為である。 自分に自信がないから、自分の理論で武装する。 そしてその理論において、自分はいつも、いつまでも被害者である。 自分の理論以外を認めないが故に、人の話など聞くわけが無い。 加えて身勝手な要求を相手に突きつけ、それに応じなければ更に攻撃を行う。 そんな無茶苦茶な行為、所謂侵略行為を行ってくる人間もいる。 いや、何処の国の事ってわけじゃあないんですが。 とにかく、争いを起こすって事は大抵こんな感じで不毛。 自分自身を貶めるだけに過ぎないと思う。 争いは常に拳を振り上げた時点で負けなのであると思うし。 でも相手に敢えて拳を振り上げさせて、大義名分の下に 侵略行為を行ったりする人もいたりする。 いや、何処の国の事ってわけじゃあないんですが。 戦争をふっかけるのは国だが、戦うのは市民だ。 人あってこその国ならば、人を犠牲にする戦いは避けるべきだろう。 ならば武器を捨てるか? そうすれば今度は何処かの誰かから武器を向けられるかもしれない。 そうなれば、人々の為に立たねばならない時が来る。 しかし、いかな大儀の元に立っても、結局正義は勝者のものでしかないのか。 色々と考えるが、それとは別に空腹を覚える私がいる。 戦争を知らない故の気楽さか。 考える事は必要だ。 しかし世界は難しい。 私のポケットには大きすぎる。 神様どうにかしておくれよ。
by unnyo8739
| 2006-08-31 16:22
| 日誌叙情駄文
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