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娘が時々流行り物のギャグ的なモノを披露してくれることがある。 TikTokだの何だので見つけた動画の真似だとか、駄洒落だとか。 一応それに「面白いね」と返しちゃあいるんだけれど、いやしかし。 本音の部分では「クッソくだらねえええ!!」とか考えてしまう。 いや、くだらない、ですむならまだマシだ。 真にくだらなさを通り越すと、「どうでもいい」に変わることを考えれば、くだらないと思える時点でまだ感想の域に残っている。 そして次の瞬間に「どうしてこうも子供はくだらないことが好きなんだろう」と思うわけだ。 が、考えて欲しい。 かつては自分も子供の一人だったのだ。 幼少時が無く、いきなり大人ですっていう存在は多分居ない。 このくだらないものを面白いと思う感情は、間違いなく幼少時の自分も持ち合わせていたはずなのだ。 そしてそのくだらなさを糧にして、今という自分の、例えばセンスだとか笑いの好みのようなモノが構築されているのである。 すなわち、子供故のくだらなさは、自我を構築していく上で必須の条件であると言えよう。 大人がそれに「糞真面目に」口を出すことは、どうしようもなく無粋である上に、子供の人格の否定にも繋がりかねない。 くだらないと思っても、どうでもいいと思っていても、それでも「面白い」と応えるのが大人なのだ。 と言う事を数秒ほどで考えついたんだけれども。 そういう大人の、大人故の配慮とかそういうのって、何とも小賢しい。 変に空気を読むが故に、変に色々経験し、子供よりもモノを知っているが為に、そして無駄に身体が大きくなってしまったが故の上から目線。 夢から醒めて、現実を見る、あるいはその現実の中を生きる事を強制させられるが故か。 大人はどうしてもくだらなさを楽しむ能力を失ってしまっているように思う。 今日日のお笑い芸人をみてみて思うのだが。 あの笑いは果たして子供が見ても面白いと思うのだろうか。 笑いのレベルを、子供では無く大人に設定しているのではないか。 大人故の賢しさで、子供を嗤わせることよりも、金を出してくれる世代にそったネタを作っているのではないか。 果たしてそれを見た子供が「こんな風になりたい」と思うだろうか。 youtuberはその辺が、どうしようもなくくだらないのだけれども、そのくだらなさが子供の目線そのものであったのではないかと推測する。 大人が見てもよく分からない動画が、数百万も再生されているのは、その目線の高さというモノを誰よりも意識していて、それに準じた作りになっているからこそ受けているのではないか。 いや、別にyoutuberがくだらないってわけじゃないんだけどさ。 まあ、その辺は個人的趣向が入るからどうしようもないんだけど。 私アクアリウム動画とか、釣り動画、料理動画ばっかり観ているもん。 後はゲームのプレイ動画とか。 こう並べてみると、盆栽いじりをしている年寄りと大差ないと言われても仕方ないな。 大人になるとそういうのが楽しくなるんだよおおお!! と思ったが、子供のころからそういうの好きだったかも知れない。 私の感性は、もともとそっち方面にガン振りされていたのかも知れない。 とりあえず個人的なところは置いておくとしよう。 この「大人の上から目線」は、別に子供相手限定で起こりうることではないと気がつく。 それは所謂オタ話の中に出てくる、「古参」と「新参」の関係にも繋がるのではないか。 様々を経験し、色々知っているが故に、古参は様々を語る。 だが新参はこれからを経験し、自らが考え、自らの「好き」を確立していく存在である。 個人の趣向に小賢しく口を挟んでしまうのは、まさに「古参」を通り越して「老害」となりうるのではないか。 知らんけど。 って言うか、思いついたから書いてみたけど、蛇足極まりなかった。 この話はなし、ノーカン、取りやめ。 とりあえず。 小賢しくなった大人は、物事を理詰めで考えがちだ。 だが、子供はもっとシンプルな、感性を持って行動する。 そこに大人が理解する隙を見出す事は出来ないかも知れないが、見いだせないなら見いだせないで、意地になって理解するのではなく、それを受け入れ認めることが大事であると知るべきである。
by unnyo8739
| 2019-02-05 15:00
| 娘観察日記。
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