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暇になるとどうでもいいことという物が、後から後から湧いて出てきて、どうにもどうでもよすぎて堪らない。 今回、fallout4にある本の表紙をエロい物に変えるMODを見つけて、そのイラストの内容を見ていて、またエロについての考察が脳内で始まってしまった。 前回辺りで、日本人的エロは「恥じらい」があるからこそ「萌え」とかそういう風な物が生まれるんだ~とか、そういう妄言を吐いたのだが。 そこに行き着く過程でまた思った事が一つ。 世の男は「女性を抱きたい」と言う欲求を性欲である。 それが女性の場合は「抱かれたい」と言う欲求に変わるのだ。 まあ、中には「抱かせてやりたい」的な思考を持つ女性もいるかも知れないが、基本的には「抱かれたい」と言う、受け身の欲求が本能に組み込まれているのだと考える。 人間を動物として見た際、メスは子供を生み、育てるという役割を。 オスの場合はそれを支える為に、狩りやら何やらをしていたと考えられている。 その為にオスとメスでの思考や、コミュニケーションの在り方は、同じ人間種であっても別な物となり、それが現代の社会においても男女間の思考の違いという形で発現されている。 生物におけるオスの生存目的は、自身の種を世に残すこと一点である。 それはいかなる動物においても、恐らく胸痛の物であると考える。 メスもまた種を残すことを目的としているわけであるが、ただ単純に自分自身の種を残すのではなく、「より強い種」を得ることが本能に組み込まれている。 その結果として、オスはひたすらに性欲を持て余し、メスは自らを満足させられる相手以外との接点を拒むようになった。 が、これが動物の世界から人間の「社会」と言う世界に立つと、また話は変ってくる。 単純に種を残すという本能以上に、「社会を生きる」「社会の中で満足を得る」と言う概念が加わってくる。 単純な本能を超えた先の、知恵の実を得た結果として、人と動物は殆ど別の存在となったと言い切っても良いのだろう。 で。 日本だろうと何処だろうと、エロは男の誰もが求める物である。 故にエロは常に「男目線」で描かれる事が多いわけである。 勿論女性のエロ作家もおられるだろうが。 ここでようやく本題なんだけれども。 海外、と言うかアメリカのエロ絵と日本のエロ絵を見比べていて気づく事が一つ。 日本のエロ絵は、本当に「男目線」のみが、「男の願望」「欲求」「フェチズム」が表現されている。 そりゃあ先にも述べた通り、エロは大抵の男が求める代物であるから当然であるが。 対してアメリカのそれは、当然日本のそれもあるのだけれども。 「女性自らが性をアピールする」と言う概念があるように思える。 これは前回の「恥じらい」の有無にも通じるモノがあると考えられる。 性に対する考え方が、現在の日本よりもある意味オープンなのだろうか。 しかしアメリカは大抵キリスト教圏である事を考えれば、性に対する認識はもっときつくあるような気もするが、まあこの考え方は時代遅れか。 男女関係なく進出するということは、性に対してもある種オスからの一方的な欲求ではなく、女性からの欲求も発生する双方向の物に変っているのではないかと考察する。 故に行為の際の声も、「自ら求める」ような積極的なものになっているのだと思われる。 だが。 男の性欲、と一言に言っても、先に述べた通り様々なジャンルがある。 だがその中に共通して、いや、例外もあるが、大抵が共通して「征服欲」と言う物がある。 エロは単純な種を残す行為ではなく、征服欲という新たな欲求を得る為の行為でもあるのである。 むしろ「征服欲」こそ、エロスの真の姿なのであると言い切っても良い気がする。 故に。 男はその欲求が故に、女性から発生する性欲と言う物に、ある種の違和感、あるいは嫌悪に近い形の物を感じているのではなかろうか。 既に文化として、生活としてある、アメリカなんかでは、その発想には至らないかも知れないが、日本のエロにおいては。 「征服したい」あるいは「されたい」と言う、因子が少ないそれを「エロ」と認識しないのではないか。 「おーいえしーはっは」は、全く欲情出来ないのではないか。 と言う事を、割と本気で考えていた。 自身の文章力、表現力の少なさがもどかしい。 もっと深く色々考えていたのに、三分の一も伝わらない。 いや、まあ、これ、飯前に考えてたことなんだけど。 飯食ったらどうでも良くなって、その後考えるのを止めたので、全く考察としてまとまりきらなかったのは仕方なかったりする。 性欲も本能の一環であるが、結局食欲には負けると言う事を知る。
by unnyo8739
| 2018-11-20 11:00
| 日誌叙情駄文
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