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ふとAmazonを眺めていたら、「無職強制収容所」っていう漫画があった。 特に興味は無かったんだけれども、そのタイトルから思ったのだが、「無職」を「強制収容」してまでやる事と言えば、やはり「労働」なわけで。 つまりこれは「強制就職」による、ブラック企業との戦いなのかな、などと思い、wikiで概要を調べてみた。 一応予想は当たっていたかなと思っていたが、何かそれ以上にぶっ飛んでいた。 えぇー。 しかしこれくらいぶっ飛んでいた方がエンターテイメントとして成り立たせるのに、実に効果的であると思うから、これはこれで良しなのだろう。 しかしあれだな、このwikiから推測するに、労働は既に「搾取」の象徴として成り立っているんだなあ。 いつか国語辞典に「労働」の項目に「搾取」が加わる日も…ないな。 数百年も、あるいはもっと以前から、世は支配するモノとされるモノに分かたれて人の社会は成り立ってきた。 それを今更「全て平等」にしてしまうと、人の社会は成り立たなくなる。 誰もが同様の責任と同様の労働を負い、それ以上を求められることも無ければ、それ以下を押しつけられることも無い。 それは金銭もまた同じで、どんだけ働いても、どんだけサボっても、同じ額の金が定期的に入ってくるとするならば。 あ、これ社会主義か。 それはやっぱりなりたたないんだよなあ。 働いたらそれに見合う分の対価が無ければ、人は社会の崩壊を願うようになるだろうから。 かろうじて日本の社会が崩壊していないのは、過去にあった封建制度、あるいは丁稚奉公制度があったからで、きっとこれが別の国だったら、もしかすると「暴力」による社会の改革に打って出ていた可能性も否めない。 貧困は大抵暴力を呼ぶ。 そして貧者が求める英雄は、必ずと言って良いほど理想からほど遠いモノとなる。 英雄は常に独善主義であるからだ。 それは独裁に繋がり、貧者はまた新たな英雄を欲するようになる。 歴史が既にそれを物語っている。 願いや祈りっていうのはそのうち暴力へと変貌する。 大抵が成就しないからだ。 そしてそれに大義を、自らを正義だとしたとき、大抵暴力による行使が行われる。 正義の反対は別の正義、などと野原ひろしが言っていたが、そもそも正義の本質は、「独善的な暴力を正当化したモノ」に過ぎない。 暴力を制するのは結局暴力でしか無いのか。 人に救いは無い。 前々関係ないけど、あんまりにも動けないから落書きしてた。
by unnyo8739
| 2018-11-01 14:30
| 日誌叙情駄文
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