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「うちはン百年前からの伝統を受け継いできております」などという話を聞くことがある。 なるほど、昔ながらの製法を今に受け継ぐと言う事は、実に難しく偉大なことだ。 そしてそれによって作られた某は、とても良い物であるのだという。 が。 この伝統という物に対して、どうにも疑問を抱かざるを得ない。 それは伝統を否定するというわけではなく、伝統というものが果たしてどのように受け継がれるべきであるかと言う事だ。 例えばだ。 何処ぞの職人が、何かしらの、まあ食器みたいなのを作ったとする。 そしてそれがもの凄く評価されて、日用品としてだけではなく、美術品としても評価を得るものになったとする。 そうするとその職人は、それを作って売ればお金になるわけだから、当然のように作り続ける。 その結果、その職人自体も技術が向上する。 そう、向上するのだ。 その向上した技術で作られた代物は、最初に作られた代物と、全く同じ物であると言えるだろうか? 何だかんだで人間が作る物である。 上手くいくモノもあれば失敗するモノもある。 そして人間の感性という物はいい加減極まりない物で、モノの善し悪しよりも、自分がどう考え、どう感じたかに価値を見いだすのだ。 所謂他人から見たらがらくたに過ぎないが、当人からすれば黄金に匹敵するお宝という現象である。 もとい。 技術を受け継ぐのであれば、失敗部分は失敗部分として、改善を残さずして継承させるべきなのだろうか。 いや、それはあまり考えられないように思う。 「もっと良いモノを作りたい」と言う欲求は、「もっと良いモノを得たい」と言う欲求にも合致する。 良い物はもっと良い物になっていくはずなのだ。 ならばだ。 現代に残る古来の技術、というものにも、もっと多大な歴史の積み重ねがあるはずだ。 失敗もあれば成功もある。 そして良いモノとされるものだけが残ればいいのだろうが、実際はそうでもないものも沢山に残っているわけである。 時代は日々進化する。 人の手をかけずとも、機械やら何やらによって、人間以上の精度で物作りを成すことが出来る時代がそこにあるとすれば。 「古来から続く技術」は、果たして未だ進化を続けている技術ではなく、完全に停滞してしまった技術を指すと言うことではないのか? 所謂オワコン技術である。 流行遅れの技術である。 しかしそれを、先にも挙げた「がらくたに至高を見いだす嗜好の人」が、未だそれを支えているだけに過ぎないのではないか。 手間暇かけて良い物を作るのは分かる。 しかし同じいいモノが出来るとして、手間暇を削減できる要素があるならば、それに越した話ではないのだろうか。 美味いものは誰が作っても美味いものになるのではないだろうか。 その人だけが持つ、オンリーワンな技術があるならば、そこに納得も行くが、そんなオンリーワンが果たして継承できるのだろうか? ある漫画にて「元の技術をリスペクトしつつ、新しい物を付け加えて別の形にする」と言う文言があった。 これには非常に合点がいく。 より良いモノを作ろうとするならば、そこで技術を停滞させることは愚かである。 新しい物を取り入れる事は、全く間違いではないと思うのだ。 勿論、古来の技術にも「味」があったり善し悪しあることは間違いない。 だからそこに「リスペクト」、「敬意」を示す事は重要だと理解する必要があるのだ。 「より良いモノ」を、少しずつ「もっと良いモノ」にするというのは、詰まりそう言う事であると思う。 産業革命による技術革新は、人々に多大な恩恵を与えた。 機械による大量生産は、それまで高価とされていたモノも、手軽に人の手に渡るようになった。 だがこれを「技術の継承」が故になされた代物であるとは考えにくい。 これは革新であり、別のモノ、別の根、別の枝葉にある存在なのではなかろうか。 新しい種より生まれた、別の木々なのではないだろうか。 故に。 機械によるそれを、私は否定するわけではない。 人の手によるそれも、ナンセンスと思うわけではない。 それぞれにルーツがあり、交わらぬものであるから、交えようとすることこそがナンセンスなのだ。 つまり何が言いたいかというと。 人間と機械が完全に融合して、楽だけを享受して生きていくことは出来ないものかしら。 どこかに人の手を入れようとするから、どこかで機械だけでまかなおうとするから歪みが出来るわけで。 いっそ機械人間の時代となって、それがスタンダードとなったとしても、私はきっと驚かないと思う。
by unnyo8739
| 2018-10-16 11:00
| 日誌叙情駄文
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