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女性をして「性的な目で見るな」などと言う話を聞く。 まあ確かに何かにつけてそういう視線で見られては、気持ちが悪いのも分からんでも無い。 だが、男性にとって女性は女性であるだけで、性的に見る事が自然であり、本能である。 それを文化の力で、知性と理性という強制力で、そうならぬように生活しているのだ。 即ち抑制されることが日常になっている。 まあ、この話は以前にもした事があるのでこの辺にしておこう。 で。 痴漢だのなんだのの、「そんな格好して歩いている方が悪い」的な理論を持ち上げてくる話を聞くことがある。 これ、「何言ってるんだこいつ」と言う論説ではあるけれど、ある意味では一理あるとも思える。 先の話の通り、男性は男性である以上、性的な目線で見る事が自然なのだ。 そしてそれを文化だの社会の力だので抑制している。 抑制している限り、そのたがが外れることもまたある事なのかも知れぬ。 当然犯罪を擁護する気は無いが、一つの見方としての話。 人も結局は動物であるのだしね。 そんな中で、お洒落だの可愛いだのセクシーだの言って、色んなファッションが生々流転されているわけだけど。 その根点にあるのは、結局セックスアピールなのだと知る。 自身を着飾るのは、文化のそれにより、自分の為であると思いがちであるが、実はそれも性的本能にあるものではないか。 海外はどうだか知らんが、しかし海外のその女優さんだの何だのを見ていると、兎に角「セクシー」であろうとしているように思える。 セクシーはもうそのままセックスアピールを重視したような、そんな感じのファッションである。 もしファッションにそういう意図がないのであれば、イスラムのそれみたいな、身体全体を隠すような服が世界の基準となっていたはずだ。 あれなら多分そんなに性的に見られることもないだろう。 何か知らんけど、宗教は性的精神を、やたら不浄としたりする事が多い。 古代文明においては神聖儀式だったりするのに。 「穢れ無き~」っていうけど、それ生物としては随分汚れてると思うんだよな。 と言う事で、実際の人間でそういうセクシーさを求めても、それは中々に難しい世の中となっている。 故に人はフィクションの中にそれを求めるようになった。 エロは人間の本質であり、文化文明を支える、あるいは築き上げる為の礎でもある。 故にこそ、その内容はほぼ一貫している物の、それに付随する技術進歩の速度は異常なほどに早い。 そのフィクションの表現においても。 基本的に写実的な、現実にあるものを元としてフィクションを描く欧米辺りのそれと比べ、日本という国は元々デフォルメが基準としてある国であったわけで。 日本のデフォルメの力は、元々現実から外れた物を表現するのに、相当に相性が良かったわけで。 気がつけば日本のデフォルメの原点が、結局性的なモノから来ていると考えても、それ程違和感は無い。 とりあえず皆エロ絵を描く。 必死で人体を学び、エロい妄想をし、それをアウトプットする。 僅か半世紀も経たぬうちに、日本のデフォルメ・エロの規格は、他国の追随を許さぬほどに高まっている。 これはある意味、人間の本質に近づく為の、一つの宗教観念なのではないかとすら思える程だ。 んで、結局何が言いたい買って言うと。 でもそんなにエロ絵ばっかりでいいのか? 妄想の女の子でいいのか? いや、悪い事は一切ないんだけどさ。 だから現実を求めよう、というのはまた問題が違いすぎるから、言うべき事ではないんだけど。 でも何か違和感のような物を感じるんだよなあ。 何だろうこのモヤッとした気持ち。 とりあえず絵を描けと言ったら、大抵皆半裸の女の子ばっかりに思える。 それは私が見ている部位があまりに一部過ぎるだけなのか? もっと高いところから見渡せば、きちんと芸術としての物の見方をする事が出来るのか? 最近アレなんだよなあ、エロ絵とかその辺にゲシュタルト崩壊起こしてるんだよなあ。 っていうか、そもそもの人間の顔だの、性的部位いについても崩壊を起こしているので、私はもしかしたら半分くらい正気じゃ無いのかもしれない。 もし狂気というものが、自分の偏執を礎にして強化されたリビドーであるとするのならば。 やっぱり私は狂っているのかしら。 この歳になって厨二病とかやってられないわ。
by unnyo8739
| 2018-09-27 11:00
| 日誌叙情駄文
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