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結構楽しみにしていたバカボンを視聴。 何とも言えずバカボンな感じで安心した。 私、おそ松くんよりバカボンの方が好きだったので素直に嬉しい。 内容はおそ松さん同様にぶっ飛んでいたわけだが、まあ本家はもっとぶっ飛んでいたし、どうと言う事は無いか。 と言いつつも、本家は本家で、ぶっ飛んでいるんだけど何処か上品さ的なモノがあったような気がする。 上品さと言うよりはインテリっぽさというか。 天才だから仕方ないとはいえ、天才とはやはり辛いモノなのだな。 ところで。 どうすれば一般的な発想しか持っていない私が天才になれるか考えてみた。 いや、天才は発想が天才的であるから天才なのではない事を忘れていた。 天才の天才たる所以はその行動力にある。 超弩級の発想力を持っている人間というのは、意外と身近にいるものだ。 例えば自分の親兄弟、友人、脳内に至るまで、そこら中に存在している。 しかしその発想を行動に移せる人間は少ない。 天才であっても、いや、天才であるが故に常識を重視したり、そもそもその発想をしようする必要の無いポジションで会ったりと、天才は天才であるが故に表に出なくとも才能溢れ、豊かに人生を送っている。 表に出る天才は、天才故に表に出るのでは無く、表に出ないと食い扶持がないから表に出るのだ。 出ざるを得なかったのだ。 時代が求めたのでは無く、時代に逆らえなかったから天才になるしかなかったのだ。 つまり、天才になる為には行動力が必要かと思ったが、真の天才には行動力すら必要ではなかった。 なりたくてなるものではなく、なってしまうものが天才だった。 黄金の轍の塊は正しかった。 と言う事は。 この時点で私が天才になれる目はまるでなく、如何に頑張ったとしても凡才であるしか、凡才にすらなれるかどうか怪しくなってきた。 凡才は凡才であるが故に、見事なまでに社会に融和・調和する。 社畜と言われようが、使い捨ての歯車と言われようが、換えの聞く人材と言われようが、それは才能をやっかんでの発言に過ぎない。 替わりが聞くと言う事は、応用が利くと言う事だ。 何にでもなれると言う事なのだ。 どうやっても食い扶持を得てしまう、それが凡才の凡才たる所以なのだ。 これぞまさに天才的凡才。 日本人はもっと胸を張るべきである。 私は凡才にすらなれなかった。 私は無能だ。 無能で自らが食い扶持を得られる術を見いだせない人間であっても、食い扶持がなくては食っていけない。 食っていけないと言う事は、生きていけないと言う事だ。 しかし我が日本においては、誰しもが幸福に生きる権利を有しているのだという。 恐らくそれは日本に限った話ではなく、世界の何処においても同様のことを言われるだろう。 本来自然界においては無能は生きていくことが許されないが、人間の社会においてはそれも許される。 許される以上はその権利を、これ以上無いまでに使用、駆使しなくてはならない。 使われない権利は権利というモノの冒涜である。 何の遠慮も躊躇も無く、暴力的なまでに権利は行使されなくてはならない。 それは既に形として、方々で実証されている。 権利を妨害する者は悪であるとすら言い切れるのだ。 なので。 有能な諸氏らは必死懸命に働いて、私のような人間を支えなくてはならない。 権利はより弱者の為に尽くされるのだという。 即ち、有能者は無能者よりも、所持する権利は下なのだ。 その証拠は口にせずとも ここまで書いてアホらしくなってきたので止めることにする。 とりあえず、働かなくても生きていける時代をそろそろ迎え入れるべきだと思うよ!
by unnyo8739
| 2018-07-18 15:00
| 日誌叙情駄文
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