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人間の想像力は、人間の身体そのものが枷になって、限界を超えることが出来ない。 精神は身体の形を超えた物の見方をする事は出来ない。 故に死という形で肉体から開放された時、人は悟りに至るのではないか。 死は予め定められ、誰しも避けられぬものであるのに、どうして恐れるのか。 後は神が人を己を模して作ったなら、人が良きものになるのも悪くなるのも、神がその基準であるのならば、人が高尚になろうとすること自体ナンセンスなのではないか。 つまり神様も清濁あってこそ多様性を得て存在しているんだから、人間が一生懸命頑張って悟りを得ようとしなくても、既に悟りの中にいるんだよみたいな。 そして「あ、これ仏教だわ」と気づいてみたり。 あと、100%純粋な存在というのは、多様性を破棄したものであり、多様性とは観測者がありきで生まれるものであるから、それしかないというものは、何もないことと全く相違ない、とか。 などと言ったフレーズが唐突に頭に浮かぶ。 本当はもっとくっだらない事を、上に書いた事も、もっと詳細に妄想していたりするんだけど、アホらしいので書かない。 歩くという行為はこういったよく分からない哲学が降って湧いてくるので面白い。 面白いのだが、こんな事をしょっちゅう考えているのは自分だけなのだろうか、などとも考えてしまう。 が、多分そんなことはないだろう、皆総じて宗教家で厨二病のはずだ。 歩くと足の裏から来る刺激が脳にも行って、脳の働きが活発になるとか聞いたことがある。 だからと言ってこんな事を考えなくてもいいんじゃないかなと思うんだが。 もうちょっと人生の為になる事が浮かんでくれば良いのにと落ち込まざるを得ない。 しかし考えてみれば、人間の本質は小学生、及び中学生の時期に全てが形成され終わると私は考えている。 つまり過去の私が、思春期とその前の時期に常にそういう事ばかり考えていたが為に、現在の私の、無心になった時に浮かんでくる本質がこのような厨二病思考を生み出すのではないかと考える。 実際の所は知らんです。 でもこんな話でも、何処かの誰かの厨二病思考のきっかけにはなってくれるかもしれない。 全く役に立たないと思うものでも、所変わればなんとやら。 そして私も日記で書くことが出来て万々歳。 やっぱ書くべきじゃなかったか。 厨二過ぎて赤面するわ。
by unnyo8739
| 2018-06-20 15:00
| 日誌叙情駄文
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