|
ツイッターにて何処ぞの役員と弁護士のやり取りがなされていたようだ。 そのやり取りを見ていて、果たして顔真っ赤なのは誰かとかそういう話はどうでも良い。 やり合いをした時点で既に同レベルなのだ。 そしてどちらの主張も正しく、どちらの主張も全て正しくはない。 あるいは双方だけに止まらず、支持者の話まで全て間違っている、というのがテンプレである。 それにしても。 ホリエモンにしても今回の社長にしても、大抵成功者は合理的な思考というモノを持っているなあと感心する。 それは自分の人生から学んだ成功論が元になっているのだろうか。 その辺は定かではないが、基本的に合理的な思考というモノはシンプルである。 シンプルだからこそ合理的なんだけど。 例え不確定な要素があっても、恐らくポジティブにあるいは、不確定をなるべく確定にするように動き、未知へと乗り出すのだろう。 普通というモノをどう定義すれば良いのか分からないが、色んな所で描かれる大衆を見て判断するに、殆どの人はそういった判断をする事は出来ない。 と言っても理屈が理解できないわけではない。 物事はそんなに単純に、シンプルに話が進む事は無いと考えているからだ。 色んな不安要素が混じり混じって、不確定な道には乗り出せないのである。 常時「一寸先は闇」という、基本的にネガティブな思考が根本にあるように思える。 同じ人間であってもこの差は何か。 少し考えてみた。 そしてひとまず出した結論は、成功者というものは馬鹿であるという結論だ。 しかしただの馬鹿ではない、運の良い馬鹿なのだ。 勿論これは言葉のあや的な言い回しであり、成功する人した人は、間違いなく成功を得る為の高い知能やら何やらを備えている。 不確定要素を排除するための行動力も備えている、実に優秀極まりない人物である事は間違いない。 しかし不確定な要素というモノは、人間がいくら頑張っても、どうにもならない事もあるのだ。 即ち限界まで努力して、なお博打の要素が関わるのが未知へと切り出すと言うことなのだ。 そこへ敢えて歩を進めようと考える強気さは、馬鹿という表現を使って表さざるを得ない。 少し考えれば、誰かに追従して安全な道を進んでいく方がずっと楽であるし、それが大きな道であればあるほど間違いは少なくなる。 そこを外れる方がリスクであると考えるだろうし、被らざるを得ないリスクは先頭に取らせて、なるべく高いおこぼれを貰う。 No.1よりNo.2の、いや、No.5くらいが一番安全圏という理論。 責任は常にトップにあるのです。 間違っているだろうか。 まあ、それはそれでどうでも良いんだけど。 何だかんだリスクを切り開いてリターンを得た人間はやっぱり大したものだと思う。 実際大したものだから、社会的な地位もあればお金もある。 成功者と言わずして何と言おう。 しかし成功者の理論と言うモノは、大体が当てにならないし、少し的が外れているのも事実である。 彼らと全く同じ道を歩んでも、同じ結果にはならないだろう事は明白だ。 だが、一般論で言う、良い学校を出て良い会社に入るとかいう話は、同じ道を歩んでも、大体同じような結果を得られる。 これは成功者の話よりもずっとあてになると言えるのではないか。 加えて。 成功した後の立ち位置と、一般人の立ち位置が同じであると考えるのも間違いである。 持てるモノと持たざるモノは、全く別の生き物であると言い切っても良いと思う。 1億円持っている人間が千円を落としても、さして動揺しないだろうが、千円しか持っていない人間が千円を落とせば大問題だ。 同じ人間であっても、同じ理屈で動く事はあり得ない。 その千円をきっかけにして、もしかしたら犯罪的行為が起こる可能性も否定できない。 何故なら後がないのだから。 窮鼠猫を噛むとはよく言ったものだ、余裕がなくなれば何をしでかすか分からない状況になるのだ。 この世で最も効果的行動というのは、間違いなく暴力であるのだ。 人間の社会においては金こそ全てに通じるが、動物という概念においては暴力こそ全てに通じるのである。 暴力の形は様々だ。 単純に殴る蹴ると言った純暴力もあれば、暴力を自分に向けた自殺というモノもある。 成功者の足を引っ張る、妬むそねむというモノも、形になっていないだけの暴力だ。 持つモノは持たざるモノからの暴力に常に備えなければならない。 金持ち喧嘩せずとも言うではないか。 昔あったマネーの何たらとかいう番組に出ていた人らも、そのときは成功者であったが、そうでなくなってしまった人も居るという。 今日日は嘘かほんとか関係なく、あの人は今的に調べられて、晒されてしまう世の中である。 成功した後は、えらそうにふんぞり返るより、弱者を飼い慣らすなりして、刺されない立ち位置を築く方がいいんじゃなかろうかと思うが、まあ知ったことではない。 ところで。 ふと、もし世の中全てが強者的思考になったとしたらどうなるだろうか。 誰もこれも合理的思考を用いて行動する。 そしてその合理的思考は、それ程視野が狭くない、という前提だ。 周りの目を気にせず、自分の思う事を行うと言ったものを想像することにする。 成功者は周りの目よりも自分の意見を通すことで成功し、強者の思考を得るのだから、多分それで大丈夫だろう。 社会が回らないビジョンが見えたような気がした。 結局食物連鎖のそれじゃないけど、全てが同じ立ち位置では社会は回らないのだ。 社会は多様性ありきなのだ。 食うものがいて、食われるものがいる。 トップに立つものが仕事を作り、そこで作られた仕事をこなすことで生きるものがいる。 貧民が居なければ金持ちも成り立たない。 仕事をしてくれる一般人が居なければ、たった一人で出来る事は少ないのだ。 持つモノも持たざるモノも、立ち位置は違っても同じ人間の社会に生きている以上、余計な敵を作る事はナンセンスである。 と思うんだけど、別にそんなこと知った事じゃねえ、って言う感じの人は、最近多いかも知れない。 と言うよりもあれか。 SNSにて絡んでくるような人にも、何だかんだと応答すると言うことこそ、同じ立ち位置に立って慈しむという行為に当たるのか。 それもまた確かかも知れぬ。 普通は全然関係ない人間が唐突に話しかけてきたら、明らかに警戒したりするもんだもんなあ。 一般人の目線では「何言ってるんだこいつ」って感じに思えることでも、同じ成功者の目線から見たら「凄く優しい」と捕らえることが出来てもおかしくはなさそう。 何だかんだとやはり立ち位置が違うと、見える世界も違うのだ。 ズレはやはり仕方ないことなんだ。 などと。 ちょっと考えてみたが、こんなくだらないことを考えても私には何の得もなかった。 せいぜい十数分の暇つぶしが出来たくらいだ。 もうちょっと他のことに知恵を使うべきが、私には必要とされていることだろう。 私、成功者にならなくても良いから、宝くじとか言ったぽっと出のお金で生涯楽して暮らしたい。 怠惰に生きたい。
by unnyo8739
| 2018-06-05 11:00
| 日誌叙情駄文
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||