|
頭痛は何とか治まってくれたので、多分大病ではなかったのだと思う。 以前に酷い腹痛を患った時は、この頭痛よりももっと酷い有様であったし、もし脳関係の頭痛であったとするのならば、もっともっと激しい痛みで悶絶していたに違いないだろうから。 それでも相変わらず咳は続いており、非常に鬱陶しいことこの上ない。 だがこれも、咳き込み咽て、呼吸困難に陥るほどではなくなってきており、何とか身体は回復の兆候を見せているのだと思う…そう信じたい。 いっそ咳はいい。 多少呼吸困難になっても、そのときだけがしんどいのであり、それももう極めて面倒くさいのだけれど、それでも咳はいい。 それに伴う頭痛やら、腰痛が酷い。 これは咳が終わった後も続くのである。 もういっそ全てどうでも良くなったことにして、楽になってしまいたい衝動に強く駆られる。 大病の人はすごいなあ。 私はこの程度のちょっとした病気でももう諦めて死にたくなってくるというのに、必死で生きようと頑張っているわけだから。 多分一日に受ける身体の負荷は、私の咳など問題にならない程度の激しいものなのであろう。 そう考えると、本当に病気だけはやりたくないなあと強く思うのだが、そういう私は現在進行形で病んでいるのだった。 疲れました、死にたいですぅ。 今こうやって「疲れました」と言う言葉がたまたま出てきたんだけれども。 そうなんだなあ、きっと死にたくなる瞬間っていうのは色々疲れちゃってるんだろうなあ。 精神的なことやら肉体的、あるいは金銭的なこととかでもうどうにもならなくなって、どうでも良くなってきて。 最後の逃げ場、楽になりたい一心っていうのが自死であるとするのならば、「生きろ」と言うのは実は心底のエゴなのかもしれないと感じる。 思うに、生きようとして、あるいは生きるようとする熱意にあふれて生きている人間というのは、極わずかしか居ないのではなかろうか。 皆だるい思いをしながら、でも死ぬわけにはいかないから…それが何故そうなのかを考えることもなく…死なないだけなんじゃなかろうか。 動物の社会においては生きることと、種を残すことが全てである。 だが、人間の社会においては、生きることよりも種を残すことよりも、兎に角安泰に死ねることが全てなのではなかろうか。 所謂畳の上で何とやらと言うやつだ。 生きる為の形式はないというのに、死んだときだけは色んな形の形式があるわけで。 葬式1つにとっても、その様相は様々だ。 人が死ぬ時の準備だけはしっかりと用意されているのは、もしかしたら生きるということに対する、盛大な皮肉なのかもしれない。 まあ、そんなことはどうでも良いとして。 何とか頭痛もちょっとマシになり、咳もむせるほどではなくなってきた今日この日。 なんかもう色々面倒くさくなってきたので私は死にたくなりました。 死にたくなったので家に帰ってゲームしてダラダラしてえ。 あれ、これは死にたくなってるの? 死にたくないと思っているの? 人間の言葉と感情、そこから導き出される真相真理(深層心理)はよく分からない。
by unnyo8739
| 2017-11-30 11:00
| 日誌叙情駄文
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||