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子供に対してなるべく「~しなさい」とは言わないようにしている。 「~出来るかな?」などの言葉を使って、こちらが動かそうとするのではなく、子供から動いてもらおうと考えての行動だ。 子供はまだ自分以外の相手の心理というものを理解する能力が低いと聞く。 ならばそれは親が説明する必要があるだろう。 相手の状態を教えることで、自分がどうすればいいのかを考えることが出来る子になれれば理想だが、流石にそうはうまくいかない。 子供自身も謝ることに関しては、抵抗を感じているようなのだ。 子供なんて皆自己中心的であると思われる。 自分を曲げる事、自分の非を認める事というのは大人であっても難しい事がある。 子供に完璧を求める事はあまりに愚であろうけれど、でも謝らなければならないときにきちんと自分の非を認めて謝れる子に導くためには今から色々と手を打つ必要があるように思う。 先に「~しなさい」と言う言葉をなるべく使わないようにしていると述べたが、謝ることに関しては「~しなさい」と言う、具体的に言えば「謝りなさい」と言ってしまう。 「どうするべきかな?」と言う言葉を用いて自らが判断できるようになるにはまだ時間がかかるだろう。 普段怒ると言うことがあまり出来ない私の、唯一的怒りポイントである。 うまく娘に伝わるといいのだけれども。 子供は無邪気であり、相手の迷惑よりも自分の欲求を優先する。 なので、例えばタンスの中にある服を全部出して遊んでみる、などということを平気で行う。 その際に罪悪感のようなものを感じていることは恐らく無いと思われる。 だが。 それを私が発見したとしよう。 そして「こら」などと声を上げたとしよう。 その時の子供のアクションは、恐らくそれぞれの個性に基づいて、何の感慨も感じていなかったり、何故起こられているのか理解出来ない様そうだったりする事も考えられる。 ちなみに私の娘の行動は、「怒られる」と感じたのか、その場から逃げ去るというものだった。 やってしまったことは実に楽しかったことだろうが、彼女は既にそれが怒られること、と認識しているのだと気がつく。 怒られると認識しているのならば、最初からやらねば良いと思うのだが、子供は常に欲求に忠実なのだ。 さて。 この時点で私がやるべき事といえば何か。 まず必要な認識は、「やってはいけない事をやってしまった娘に対する対応」である。 感情顕に怒るべきか。 冷静にやってはいけない事というのを言って聞かせるか。 恐らく「怒る・叱る」と言う事においては両方が必要になる。 感情を顕にせず、ただ冷静に言って聞かせるだけでは、怒られたという実感がわかないだろうと推測する。 敢えて感情を顕にすることで、「この人は怒っているのだ」「自分はやってはいけないことをしたのだ」と理解することが出来ると思われる。 残念なことに、私は感情を吐露することが苦手である。 全てにおいて「仕方ないな」と甘い顔をしてしまう。 これでは娘の増長を招きかねないのだが、しかしあの顔がくしゃくしゃに涙に濡れることを考えると、どうしてもそれを行うことが出来ないのだ。 ちなみに。 このタンスの中身ぶちまけ事件は史実である。 もう一つ話を加える。 ここ最近娘はトイレにて用を足すための訓練を続けている。 最初はまるでその気配なく、ただただ便器に座るだけだったのだが、一度少々ではあるが、便器に座った状態で用を足すことが出来た。 嫁も私も大いに喜び、娘を褒め讃えた。 これに調子を良くしたのか、娘は以前より自発的にトイレへ行くことを進言しはじめ、無事トイレに用を足せる回数も増えてきたのだが。 私はやはり甘いのだろうか。 私が娘をトイレに連れて行った際は、なるべく娘のやりたいようにやらせることを大事にしている。 こちらのやらせたいことに関しては先のように「出来るかな?」や、「やってみよう」と言った、ノセる言葉というものを用いて物事に当たらせている。 最初は私が一つ一つ口にすることで行動を起こしていたのだが、段々と自発的にあれをしてこれをしてと行動を起こしてくれるようになった。 なるべく自分でやるようにし、私はその手伝いをするのみに留める。 と言った理想のもとに行動しているつもりだが、ある日、嫁が娘をトイレに連れて行った時の行動を見て深く考えてしまった。 嫁は娘に対して「~しなさい」と言う。 家事において忙しい嫁は、娘だけに手を回すわけには行かないのだ。 なので彼女が出来るだろうことは、すぐにでもやって欲しいと考えているのだと推測する。 出来ないことを「しなさい」とは言わないが、出来る事に関しては「しなさい」と言う。 私と一緒に何かをする際には許されていたことが、嫁相手では許されない。 これは良くないのではないか。 娘の中に築いてきた「自分のペース」というものが、全くばらばらになってしまうのではないか。 娘に対して厳しい姿勢なのではないか? さて、ここで注意するべき点は一つ。 私は私の主観に基づいてしか事実を認識することが出来ないと言うことである。 娘から見た私は、実に甘い、いわばチョロい存在という可能性もあるのだ。 私は私の主観による彼女のための行動を行って来たけれど、それは本当に娘にとって良いことなのかは分からないのである。 同様にだ。 嫁は嫁の中にある娘のための正義を実行しているわけであり、決して嫁が娘に対して厳しい姿勢を取っているわけではないのである。 主観の違いは認識の違いとなる。 ただ、娘のために行動しているという共通項はあれど、その手法はそれぞれに別なのだ。 子供を育てるということは、すなわち。 子供の人格を尊重し、それに触れるということである。 常に一人の人間として接し、親として大人として正しく見本となるべく振舞わなければならない。 だが、これは理想であり、実際は相当に難しい。 甘すぎる私と、ちょっと厳しめの嫁。 相応がバランスよく、娘に接し、良い結果となればいいのだが。 現実は、ため息が出そうになる。
by unnyo8739
| 2011-05-18 16:17
| 娘観察日記。
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