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私がいくつくらいのときだったか。 父親の日記のようなモノを見せて貰った事がある。 日記と言っても、所謂日記らしい形の日記ではなく、散文の形を取ったモノであったのだけれども、私はそれを見て深い感動に包まれたのを覚えている。 自分の知らない父の姿を垣間見たように思えたからだ。 特に私の父は自分の事をそれほど語る人間ではなかったので、尚更その思いは強く感じた。 だからと言うわけではないけれど、私は今こうやって自分の思う事や考えた事をこのブログに書き留めていたりする。 けれど、面白い事や楽しかった事に比べて辛かった事や嫌な事というのは余り書いてはいない。 それは今現在読み手となっている人に、そんな愚痴にも似た事を書いても面白くないと思っているからなのだけれども、改めてここは自分の日記であり、好き勝手にしても良いんじゃないかなと思うようになってきた。 辛い事やしんどい事を書いていく事で、自分自身がその物事に対して客観的な視点を見いだせる可能性もあるだろうし、何より将来的に娘がこれを、読んでくれるかどうかは定かではないけれど、もし見てくれたときに、彼女に対して何かしらのメッセージとして発する事が出来るのではないかと思い始めたのだ。 きっとその場だけでは伝えられない事や、教えられない事は沢山あるに違いない。 それを補う為のヒントとなれば幸いかなと思っている。 人間の社会においての親というのは実に勝手な生き物だと思う。 私の親もきっとそうだったと勝手に思っているのだけれど、親というのは自分の犯してきた失敗や遠回りの道を子供に歩んで欲しくないと考えている。 自分の感じた後悔を、子供に味わって欲しくないと思う。 だから色々と子供に口出しをする。 「今はしんどくてもきっと先々で良かったと思うようになるから」 とか、そんな台詞を吐きながら。 けれど子供は子供で一つの人格だ。 私がそうであったように、上記のような親の言い分はただの親の身勝手でしかないように感じてしまう。 自分には自分にあった道があるはずだ。 自分は間違った事をしていない。 遠回りして何が悪い、全て社会経験だ、とか。 色々と理由付けをして良くも悪くも己の道を進もうとする。 それでもまだ己の道を進んでいるのならばマシな方かもしれない。 親の言い分や期待というプレッシャーに押しつぶされて、不幸な結末となり得る可能性だってあり得るのだ。 「ただ子供の為に」と言う善意からの行動が、押しつけに感じてしまう事はとてもよくある事なのだ。 その事実に気が付くのはいつだって大人になってからだ。 結局後悔してしまうのだ。 あの時親の言うとおりにしてたらもう少し違った人生だったかも知れない、とか身勝手に思うのが子供なのだ。 どうすれば親の心を子供に正しく伝える事が出来るだろう。 個人的な考えだけれども、「お前の好きなように生きろ」とか、「生き方は自由である」だとか言う考えは私の中では悪い考えであると思う。 自由は常に怠惰と履き違えられる可能性がある。 自分の楽な方に楽な方にとばかり進んでいけば、きっといつか行き詰まってしまうだろう。 加えて「何をしても良い」というのは「何をしたらいいのか分からない」という点にも繋がると私は考える。 ある程度の選択肢を与えなければ人は迷ってしまうモノなのだ。 しかしその選択肢を与えるという行為も、行きすぎれば結局「自分では何をしていいのか分からない」という人間になり得てしまう可能性もある。 それなら結局どうすればいいのか。 八方塞がりだ。 その場その場の彼女の人生における最善を常に選び抜いて与えるなど、私が出来るだろうか。 自らの人生ですら迷い、遠回りし、後悔しているのに。 自分の言葉は押しつけになっていないか。 自分の言葉は怠惰を許容するものとなっていないか。 それ以前に自分の人生は果たして人に見せられるような代物なのか。 偉そうに語れる程大したモノなのか。 何だか色々考えてしまう。 まあ。 まだ娘は1歳にもなっていないけど。 物凄い先走りしまくってるけど、私。 娘の将来より今は自分の基礎固めだろ、とか自分で突っ込めるくらいのポジションだと自覚してるけど。 兎に角。 こうやって馬鹿な事を書き残す事もきっと何かしらの将来の遺産になるに違いないと信じておく事にする。 いつもこんな事ばかり考えながら書いてたらキリがないし。 思った事や考えた事を素直に書き残す。 今はそれで良いと思う事にする。
by unnyo8739
| 2009-10-01 18:28
| 娘観察日記。
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