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近年メディアは若者のモラルの問題として下記のような傾向を訴えてきた。 状況を疑わず、ただ浸り、美化する。 自分で考えることを拒否し、皆がやっているから、皆がそうだからという事実から行動。 それをして常識と信じ込み疑わない。自分の気にくわないモノ全てが非常識なのである。 逆にどんな下心、乃至思惑があろうと、自らを甘やかせてくれる相手は正義。 故に後退していくモラル感。いやモラルという言葉など理解していないのではないか。 理解できないのではなく、理解しようとしない閉鎖人間。 自立と我が儘を取り違え、人の言葉に耳を貸さず、自分に対する甘言のみを享受する。 しかし、改めて周囲を見渡してみると、上記に該当するような若者はごく一部である。 にもかかわらずメディアは全ての若者が上記に値するように報道し、 ある種洗脳とも取れる報道をし続けたのである。 人権無視のレッテル貼りとも取れるこの行為により、 自分の周りの奴もそういう奴ばかりなら、自分がそれでも仕方ないよね。 と実際に洗脳されてしまう人間が増加。 その結果、一部の有名携帯小説などから見受けられる、王子様お姫様的思考に到達。 文学への冒涜とも取れるような作品が祭り上げられ、 犯罪行為が日常的に行われているような、インモラルな作品であるにもかかわらず、 それに関しては全くタッチしない。 現実よりも、置かれた状況に浸ることを優先し、その他を完全に廃している。 これは果たして許される状況だろうか。 等と私がこんなところで訴えてみても、世の中は結局何一つとして変わることはない。 私が与える世界への影響力などは、非常に微々たるモノであり、 私個人の介入により、何かが変わると言うことはあり得ない。 と、言いたい所だけれども。 それは私が所謂一般善良市民であり続けることが絶対的に必要な根本である。 もしも私が、インモラルな行為を行ったり、他者を傷つけるような真似をすれば、 それは十分に世界に介入できる行為になる。 近年の、所謂モンスター・ペアレントとかいわれる、すなわち馬鹿親や、下記コラム 【溶けゆく日本人】快適の代償(2)“怪物”患者「治らない」と暴力 にある、モンスター・ペイシェント(患者)として扱われてしまう。 ここで一つの事柄に気がつく。 今現在日本を支えているのは、20~50代の青年層である。 彼らは社会人として、親として社会の良識を納め、模範となるべき存在であるはずなのだが。 上記の事柄から、根本的にモラル感を失ってきているのは、若者ではなく、 彼ら青年層なのではないかと思えてきた。 十分に世界に介入できるだけの立場にあるのである。 自己中心的な行為や、他者に迷惑をかけるような行為は常にして慎むべきである。 勿論彼らもその全てがインモラルな存在ではないだろう。 しかし、近年の事件などを目にしていると、その存在に驚異を抱かざるを得ない。 だが、最も驚異として抱かざるを得ないのは、やはりメディアの存在である。 彼らは商業主義に基づき、仮に犯罪行為であっても黙認し、 あるいはそれを助長すらする。 そのくせ肝心の真実は告げることを許されていない。 真実を公表すると成れば、個人的に情報公開所を儲け、 密告するように行わなければならないだろう。 とまあそんなことをだらだら書いたわけだけども、 ならば私が何を言いたいのかというと。 そもそもモラルの基準って何だ? 常識とは疑うべき存在であり、一つの事柄の下から物事を見ていては、 その本質を見極めることなど出来ず、ただ自分の好きか嫌いか、 気に入るか気に入らないか、許せるか許せないかという価値観より物事をこじつけてしまう。 それは人として、ごく一般的な行為であり、事柄であるだろうけども、 それをそう考えてしまう時点で既に、視る・知るという本質を外れているのではないか。 ならば何を持って基準とし、臨むべきか。 それはやはり自分自身であろう。 何者にも流される事なき、確固たる自我。 それこそが最大の基準であり、原点である。 物事に正しい視点で臨みたければ、常にして己を磨かなければならない。 それはとても難しいことであるが、間違いなく価値ある行為である。 つまり。 うちのマンションの自転車置き場は非常に狭く、 置き場に止めるにも精一杯の努力が必要なのに、 明らかに何年も放置されているような自転車が存在している事実に対し、 私は憤りを感じていいよね。答えは聞いてない。
by unnyo8739
| 2007-11-15 10:56
| 日誌叙情駄文
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