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梅雨のある日のことだった。 朝から降り続く雨はやたらしつこく、帰宅の際にまでつきまとってきた。 やれやれ、きっと明日も雨だろう。こんな日は家でゆっくり晩酌でもするに限る。 自宅付近にあるコンビニに寄って、酒とつまみを買いこむ。 コンビニを出た瞬間、むわりとするような湿度の霧が身体にまとわりついてきた。 僅か数分ほどの買い物のうちに、雨脚は強まってきていた。 早く帰れと急かすようであり、いいや帰さぬと道を塞ぐようであり。 憂鬱な気分のまま傘を広げる。 その時だ。 広げた傘の端の方。従来ならば気がつくはずもない視界の隅。 その隅の隅に、異質を視た。 違和感、などではなくもっとはっきりとしたモノ。 異質。 この夜と雨に染められた闇の中で、そんなモノが見えるはずなど無いのに。 ならば視たと言うより感じたと表するべきか。 それは明らかに異質であり、異物である。 普通であれば、そんなモノに触れようと思うはずなど無い。 けれども俺は、まるで吸い寄せられるかのようにその異質の後を追った。 雨はまだ降り続いている。 雨脚はかなり強まってきている。けれども、まるでその勢いを感じさせなかった。 驚くほどに静かなのだ。夜の闇は、水の跳ねる音すら食い尽くしているのだろうか。 気がつけば俺は走り出していた。傘も、コンビニで買った酒も、全て失っていた。 スーツが濡れるのもお構いなく、ただ足を前へ前へと運び続ける。 ――魅入られている。 まさにそれであるとしか言いようがない。 ウサギを追うアリスが如く。 頭の中は驚くほど冷静で、恐ろしいほど空虚で、己の行いに問いを投げかけながら、 時に警告を発しながら、この足を、この俺を。おさめようとしていたのに。 何処をどう走ったかななて覚えていない。細い道、暗い道を飛ぶように駆け抜けて、 何処ともしれぬ曲がり角を抜けた先。ようやく俺の足が止まる。 女が居た。 髪の先から爪の先まで、雨に濡れている。 こちらに背を向けて、じっと立っている。 傘も何もなく、ただ雨に打たれている。 カーディガンは片方の袖がずり落ち、残された肩が大きく上下している。 泥を跳ねたのだろうか、その服は黒く汚れている。 瞬間、我を失っていた自分に気がつく。 立ちつくす女の背を目の前にして、俺は一体どうすればいいのか。 そもそも何故これを追ったのか、まるで理由など存在しないのである。 夜の闇の中、男が女を追いかけ回したという事実。 どう考えても犯罪だ。如何な弁解も成り立ちそうにない。 故に俺はどうしようもなく立ちつくして、何か言葉をかけようにもしどろもどろで。 「……た。あたし。……ちゃった」 途方に暮れたその時。女がかすれるような声でつぶやいた。 堰を切るとはまさにこれを指すのか。 「あの、大丈夫ですか?」 随分と間の抜けた台詞ではあったが、ようや女に声をかけられた。 女は答えない。 背を向けたまま、壊れたラジオが如くにぼそぼそと、何かをつぶやき続ける。 俺の神経がたった今、この瞬間までまともであったとするならば、 これは尋常なことではない。 目の前にあるこれは、異常だ。 触れてはならないモノだ。 紛う方なき、確実なまでの狂気だ。 はっきりとそれを認める事が出来る。 けれども、俺は既に、視界の隅に異質を視たあの瞬間から、 完全に絡め取られ、魅入られてしまっていたのだ。 まるで警備員の居ない銀行のように、頭の中に響かなくてはならない警報は、完全に沈黙を保っている。 俺は無防備に、女へと近づいていく。 「どうしたんです?」 無言。 「何かあったんですか、警察、呼びましょうか?」 やはり女は答えない。 ただ背中を向けたまま、気がつけば、激しく上下していた肩もぴたりとおさまり、 ゆっくりと、俺へと向けて振り返る。 「やっちゃったの。あたし、やっちゃったの……」 濡れて張り付いた髪の毛の合間から覗く白い顔。 げっそりとしたその顔に表情はなく、まるで陶器のよう。 見開かれた大きな目の中に、焦点を失った瞳が小さく揺れている。 言葉を失うとはまさにこの瞬間を指すのか。 目の前にあるあまりの奇異の前に、呆然と立ちすくむ。 そんな俺をよそにして、女は一人呟き続ける。 「だって、悪い子だったんだもの。お仕置きが必要だったのよ。悪い子だったんだもの」 焦点を失って揺れている瞳が、だんだんとそのブレを正していく。 「だからやっちゃったの。丁度晩ご飯時だったし。手元に丁度いい物があった事だし」 女の右手がゆっくりと上がる。その指の間には、鈍く光を放つ何かが握られている。 「何度も、何度も、何度も、何度も。静かになるまでずっとずっとこれで、こうやって」 女が右手を振り下ろし、俺の肩がかっと熱が走る。 じわりと流れてくるどす黒い何かが肩を流れていく。 何かと目を向けると、深々と刺さっている一本のナイフ。 「うわああ!」 ようやく吐き出される悲鳴とともに、頭が異質を認識する。 「あたしの! 服も! こんなに汚されちゃって! 許せない! 許せるものか!」 女はナイフを俺の身体から引き抜くと、何度も何度も振り下ろした。 「まだ動いてる! 動かなくなるまでやったのに! やったのに! でも追いかけてくるんだもの、完全に死んだはずなのに、あたしをずっと追ってくる!」 ガラスを引っ掻くかのような、獣の叫ぶような、 頭の芯を激しく揺さぶられるような声をあげながら。 「悪い子! 追いかけてくるんだもの! 悪い子は罰を受けないと!」 いつしか、身体に走る熱がおさまり、身体が重く、地面に沈んでいく。 薄れていく意識の中、遠くで女の声が響く。 「違う、まだ追ってくる! 逃げないと! 違う、動かなくしないと! あたしがやらないと、あたしがやったんだから……」 そして意識が途切れた。 幸いにして。 俺は命を取り留めたようだ。 住宅地のど真ん中で、あれだけ激しく声をあげたのだ。 何事かと飛び出してきた近所の人々に発見され、 今こうやって病院のベッドの上で暇を持て余している。 後ほど訪ねてきた刑事によって、あの女は自分の子供を包丁で刺し殺したのだと聞いた。 現在も捕まっていないらしい。 刑事が帰り際に言った言葉。 「次からはすぐに通報してくださいね。あんまり無茶をしてもいいことないですから」 違う。俺だってあんな異常な人間に近寄りたいなんて思わない。 あんなの相手にしてないで、とっとと酒を飲んで寝ていたいと思う。 けれど、俺は追いかけた。 いや、追いかけさせられていた。 俺ではない何かの意志が、女の後を追わせていた。 今もあの女は、自分の殺した何かに追われ続けているのだろうか。
by unnyo8739
| 2007-10-16 14:45
| 僕俺私小話
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