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しばらく悶絶した後、俺は外出する事にした。 少し歩いて頭を整理しようと思ったのだ。 いや、それは後付だ。本当の所、真っ白な原稿から逃げ出したに過ぎないのだ。 けれど、それだけは認めたくない。そうだ、俺は何もかも、ここにある現実全てを認めたくないのだ。リンゴが重力に沿って木から落ちる事も、地球が太陽の周りを回っている事も、この世で物をいうのは、やっぱり金以外に何もないことも、結局その金を得られるのは阿呆のように真面目に働く事しかない事も、数学の問題でよく使われる記号がxとyであるとも、全てすべて認めたくない。 よく見てみるがいい。この世の常識なんて常々変化しているのだ。たまたま「現在」がそれに該当しているだけに過ぎず、遥か過去、或いは未来において、これらの常識が常識でありえる保証は何処にもないのである。 そうだ、常識なんてありえない。常識というのは、「現在」にのみ設置されたただの標識、道しるべに過ぎないのだ。いつまでもどこまでもそれに従っていけば、正しい道へ出られるというわけではないのだ。そのうち地球がなくなってしまえば、重力やら公転やら言う輩もいなくなるだろう。 「今」何事にもモノを言う金も、所詮は人の世にのみ存在するもの。いつまでもその価値があるとは限らない。貨幣の価値など世界の状況であっという間に一転してしまう。そんな事人類史の中でも極普通の流れだったではないか。今現在一生懸命馬車馬の用に働いても、一部のアウトサイダーたちはそれらよりも遥かに楽をして、遥かにそれ以上の金を稼ぎ出してしまう。まっとうに生きるだけ馬鹿馬鹿しい時代が今来ようとしているではないか。 ああもう。全部消えてしまえ。俺は全部認めたくない。俺は俺自身すら認められないのに。 気がつくと俺は河川敷までやってきていた。家から河川敷まで、普通に向かえば五分とかからない。しかし太陽が西へと沈もうとしている。小説を書こうとしたのが昼過ぎだったというのに、一体何処をどのようにしてここまで来たのだろう。何処をどう通ってきたかまったく覚えがない。現実をまるで見ていなかったにもかかわらず、事故を起こす事もなくこんな所まで歩いてきていたのは、我ながら大したものだと思う。 それにしても何故人は原因や要因を求めるのだろう。 そんなものを求めなくとも「在る物」は在り続けるというのに。 知ることでそれを支配したつもりにでもなっているのだろうか。否。 知ることは所詮自己満足でしかない。知った事を共有してこそ知識は価値が生まれ出てくるのだ。それは何故か。知識は他者が理解している前提の上でしかその価値を示せないからだ。何も知らない輩に知識を披露しても、何の理解も得られないのだ。知識は理解されなければ価値がないのだ。 だからといって、何故その理解に対して優劣をつけねばならないのか。 「死にたくなってきた……」 人生、若いうちの苦労は買ってでもすべき、という。 しかしどう考えてもある程度社会的地位の固まった年齢の方が、若い年代より楽をしているように見える。 どうせなら彼らにこの苦労を売り飛ばしたい。本気でそう思った。
by unnyo8739
| 2006-11-06 12:24
| 僕俺私小話
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