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私は実は感動しやすい。 安っぽいと評価の悪い映画を見ても感動する。 梅雨入りに癇癪を起こしながらも、四季の移り変わりにも感動する。 どうしてこれが美術品なのか、ちっともわからない美術品を見ても感動する。 誰の歴史かわからないが、人の歴史を見ても感動する。 日々建築される高層マンションが完成していく様にも感動する。 こんなに感動しているのだ。 これほどまでに感動しやすい人間であると、 私の行いが証明しているのだ。 と、言ったところで誰も信用しない。 「君が感動?目にゴミでも入ったときのいいわけじゃないのかい?」 そんな事を嘯かれたりもする。 それはあまりに失礼ではないだろうか。 「お前は俺が見た映画を勧めても、ちっとも感動しなかったじゃないか」 そんなことあっただろうか、記憶にないから証明にならない。 「きっと私が結婚しても、私のお葬式のときも、君は泣かないだろうね」 まるで私に血も涙もないような言い草で、大変不愉快極まりない。 むしろこれらは侮辱に近い、不愉快に泣くよりも 怒りがこみ上げてきそうになる。 私にだって涙くらいあるはずだ。 あくびをすれば涙っぽいのが出るもの。 が、実は私は体質的に、物凄いドライアイである。 私は目が悪いのだが、コンタクトレンズなどつけることが出来ない。 一度つけたことがあるのだが、1時間ともたずに外してしまった。 あまりの目の痛さに耐えることが出来なくなったのである。 そんなこともあって、日々の目の乾きに耐えられなくなり、 眼科へ行き、診察を受けたことがある。 そこで様々な検査を行ったのだが、私はあの目に空気を当てて 眼圧だか何だかを計る検査が苦手だ。 どうしても目を閉じてしまう。 そんなことはともかくとして、いくつか検査を受ける。 そのうち、下まぶたに検査用の紙をはさみ、しばらく放置することで 涙の量を測定するというものがあった。 5分ほどまぶたに紙を挟んで待つ、大変不快な検査である。 その結果、激しく一滴の涙も検出されなかった。 医者もびっくりしていたが、私はそれ以上の驚きである。 通常そんな状況になれば、だらだらと涙が出るはずらしいのだ。 目が乾いていくのだから、それを防ぐ為に涙が出て当然らしいのだ。 しかし現実には一滴の涙も検出されていない。 唖然呆然愕然とし、泣きそうになるも、涙は出てこない。 涙と同じ成分であるという目薬を処方してもらい、心で泣いて家路に着く。 以後、この事実を友人に話して聞かせた。 少しでもこの苦しみや悲しみを理解してもらおうと思ったのである。 だが、友人は私を見て何かしら悟ったような顔で一言こう言った。 「やっぱり血も涙もない」 深く鬱になる。 涙がそのままトラウマになるとは思わなかった。 男性にとって女性の涙はトラウマになるというが、 私は私自身の涙にトラウマになっているのである。 確かに映画などで感動したと告げても、自分の頬に伝うものを感じた事はない。 しかし、私は感動しやすい…はずだ。 普通の人間として、時に涙を見せることもあるはずだ。 親愛なる人の死に、涙1つ見せないはずはない。 それを見て、「気丈な人」などと言われるのは、とても心外だ。 その証拠に、先日購入した「うしおととら」で、激しく感動を覚え 思わず頬に伝うものを感じたのだ。 …そういうつもりにだけなっておいた。 涙の成分の目薬じゃなくて、涙の出る目薬が欲しい。
by unnyo8739
| 2004-06-09 14:22
| 日誌叙情駄文
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