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ここ最近見向きもしなかったため、趣味(過去形)になりつつあった落書きだが。 何だかんだと描き始めてみたら、「もっと上手く」とか「どうして自分は描けねえんだ」とか、そういうネガティブな感情ばかりが押し寄せてきて辛くなってきた。 そうじゃないだろう、求められるのは、求めるべきは、周りのことなどお構いなしに「うひょー、描くの楽しいんじゃー」という気持ちだっただろう。 「もっと上手く」とか高望みしないで、自分のやりたいように、自分のやりたいモノを、自分のやりたいペースでやれば良いだけの話なのに。 なーんで人間ってこう、無駄に高望みしてしまうモノなんだろう。 やっぱり自己顕示欲的なアレなのか、「俺って凄いんだぜ、凄いだろう」って言う事ばかりを表現したいと言う気持ちが大疾走してるのか。 褒めて貰いたいならもっと頑張ればいいだけの事だろうに、どうして自分に限界作って卑屈になっちゃうんだろうか。 っていうか、上手い人なんざごまんといるんだから、自分の個性を発揮していくだけでも十分な自己顕示になるだろうに。 やりたいことをやりたいようにやりたいだけやるって言うことこそが、自分を伸ばす最大の方法だ。 と。 とりあえず思ったことを勢いだけで書いてみたが、これは私が常に弱音を吐かないとやる気が出ないというクソみたいな性分があるせいである。 医者によると、泣いた時に流れる涙の中にストレスホルモンか何かがあるらしく、故に「泣くとすっきりする」という事柄があるように、私も涙こそ流さずとも、とりあえず愚痴的弱音を吐くことですっきりするという、精神のスイッチがあるのだ。 しかし改めて読んでみると、泣き言というよりは屁理屈だなあ。 さておき。 この思考の中の、「自分に限界を作っちゃう~」という泣き言部位。 これが娘の中にもあるみたいで。 例えば宿題をしている時等に、「習ってないのがあるから出来ない」などと、すぐに泣き出してしまったり。 そのくせ、「一度できたモノは全て出来るようになったも同じ」という、駄目な方に高慢さがあるようで、反復練習とかそう言うモノが非常に苦手であるというこの性分。 実に私そっくりだ。 いやいや、こういうのは誰にでもある事なんだし、気にする事じゃないとは思うんだけれどもね。 それでも宿題は終わらせる必要があるし、やりたくなくてもやらなきゃいけない事というのは沢山ある。 すぐに諦めたり、投げ出したりするのは、何度も「誰にでもあることだ」と気にしないつもりでいても、やっぱり気になってしまう。 なので。 現在私は娘のやること、やったことに対して、なるべく「褒める」という事を徹底している。 マイクラで家作ってみたり、レゴで何か作ってみたり、絵を描いたりピアノを弾いたりしたときなど、なるべくおざなりにならないよう、出来る限り心の底から褒める。 自分が作業をしている時とかは、どうしてもおざなりな褒め方になってしまいがちだが、頑張る。 そうすることによって、自分に自信を持つ気持ちが養われていくんじゃないかと考えて、実践しているのだが。 褒めるというのは、行きすぎると「いい気にさせる」という側面もある。 それがどんどん駄目な方に作用して、結果、甘えん坊な性格になっていっているように思えてならない。 結局「ここは習ってないからやらない!」と怒り、教科書を音読する宿題なんかも、「一回やったら十分」と考えるのか、それ以上やろうとしない。 まあ、やっぱり私が子供の頃もこんな感じだったんですけどね。 そんなときどうしているかというと。 言うことを聞かない時とか、駄々をこねる時なんかは、娘の妙に気の強いところを利用…というかまあ、そういう側面を突いて、「赤ちゃんみたい」などと言う煽ってみている。 これが正しい方法なのかは分からないが、とりあえず娘の…対抗心? に火がつくのか、「違う!」と言いつつ、怒気を孕み不快感を示しながら言うことをきくんだけれども。 この方法は何か違うような気がしてならない。 改めて文字に起こして思ったけれど、これってただけなしてるだけなんだよなあ。 むしろやる気を殺いでいるだけの気がしなくもない。 どうしたらいいんだ。 そんなある日、先日さかなクンさんの母者の記事を読んだ。 さかなクンさん、幼少時には魚だけではなくトラックだとか妖怪だとか、色々ハマりたおしていたらしい。 その結果、学校での成績が落ちてしまい、先生からも「もうちょっと頑張った方が良いんじゃないですか?」と言われたんだそうだが。 それに対し、「うちの子は好きなことに没頭できているのだから、それでいいんです(意訳)」 これ、凄いよなあ。 普通なら先生に注意されたところで、「先生に怒られてるし勉強しなさい」って言いそうになるもの。 似たような話にイチローの父者の事なんかもあるが、兎に角子供が興味を持ったもの、やりたいと思っているモノを、「そこまでしていいものなのか?」と思える程強く後押しする、というのはなかなか難しい。 「好きこそものの上手なれ」とは言うけれど、子供が将来向き合っていく「社会」というものは、いくらそれが好きで、没頭し、つきつめて、特化した才能を得たところで「そういうの、求めてないから」と、一蹴し、突き放してくる。 特化した才能よりも、所謂世間一般に順応できる人間の方を優遇する。 そして親は、子供がその社会からあぶれぬように、社会に順応するための教育をする。 これは、良いことなのか、悪いことなのか? そう言えば。 先のイチローさんやら、誰だったか忘れたけれど、何処かのサッカー選手の子供の頃の日記だか作文だかが、将来自分のやりたいことに向けての、目標に向けてのやるべき行動が具体的過ぎる、という話を思いだした。 「僕は将来サッカー選手になります。その為にはこれこれこういう練習が必要です。そしてどこそこの学校にいく必要があります。僕はその為にこれこれこういう努力をします」 みたいな感じで。 ただ何となく「将来はサッカー選手になりたいです」という、夢や願望を語るのではなく、あくまで「目的」を語るという様。 こういう事を考えるようになる子供って言うのは、一体どういう感性でこうなったんだろう。 やはり親の教育…いや、サポートがあったからこそなのだろうか。 つまり、子供の未来は、良くも悪くも親によって決まってしまうモノなのか? ああ、考えるのがもう面倒になってきた。 頭がくらくらしてくる。 ただ思ったのは、自分の娘のことも勿論大事にするべきだが、何より自分自身の事ももうちょっと真面目に考える必要がある気がしてきた。 子供でさえ確固たる目的に向かって努力をしていこうという気概を持っていたりする。 それを見せつけられると、何となく生きているだけの自分がどうにもならない存在に思えてきた。 子供をサポートする気があるなら、まずは親がしっかりした人間である必要が出てくるだろう。 なので、親ももっと危機感を持って生きるべきかしらん。 ところで。 やたら甘えん坊の娘なのだが、「ママ、ママ」と嫁を呼ぶ事はよくあるが、「お父さん」と私を呼ぶことは少ない気がする。 やはり愛情は母によってもたらされるものなのだろうか。 いや待てよ、嫁の娘への愛情が足りてないから、愛情を求めて甘えてしまうのではないか? いや、そんなことは…そうだ! この理屈だと、私は愛情をきちんと娘に与えてます~という驕りになってしまう。 それはあり得ない。 私はそこまで出来た人間じゃない。 やっぱりアレだ。 子供はお母さんが大好きなんだ。 だから甘えるのだ。 じゃあお父さんはついでの存在なのか? ああ、頭痛が更に悪化してきた。 もうこの件を考えるのはしばらくよそう…。
by unnyo8739
| 2016-07-08 13:00
| 日誌叙情駄文
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