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先日娘の宿題で、教科書の音読というのがあったので聞いていたのだけれども。 その音読の内容が、「文章をどうやって組み上げるか」みたいな感じの内容で、聞いてて「これ小学2年生の作文の内容じゃねえよ!」とか思ってしまった。 でも、ある程度のテンプレを設け、それを組み上げるときっちりまとまった文章になるのだという。 と言う事は、だ。 私のクッソ駄文はもう小学校からやり直してこなければ、まともな形に組み上がることはないと言うことが証明されてしまったと言うことに他ならないわけで。 「もう辞めたくなりますよ、日記」という感じでひそやかに、けれど激しく気分が落ち込んだ。 いや、実際私の文章能力ってアレだもんなあ。 日記としてクッソ言いたい放題の駄文を書く文には、大分経験を積んでいるから、どんどん書いていけるけどさ。 ちょっと改まった文章を書けってなると、もう全然対応できないもん。 小説みたいな小話を作るとなるともうダメ。 私、創作能力皆無なんだと、実際にやってみて痛感させられたので。 でもまあ、能力皆無でも、延々続けてれば多少は上達する、ということは間違いない。 ただ、小話創作の場合、何だかんだとセンスが必要になってくるのはやはり否定できない。 この場合で言うセンスというのは、もう一言で言ってしまうと「妄想力」。 ただ、この妄想力の場合は誰しもがそこそこのモノを持っている。 問題は次の「完成させる能力」だ。 コレを持っている人というのは相当少なくなってくる。 どんな面白い妄想を持っていても、それをオチをつけて完成させる能力が無ければ、結局それはいつまでもただの妄想に過ぎない。 なので、もし今後「創作したい」という人がいるのならば、私は声高らかにこう言おう。 「下手でもつまんなくても、不格好でも良いからとりあえず完成させろ」と。 最後まで組み上がっていない代物は、どれだけ中身が良かったとしても「作品」ではないのだ。 やりたいことをやりたければ、必ず「きちんとした形」にしなくてはならないのだ。 まあ、そんなことはどうでもいいので話を戻そう。 実際小学校の教科書ではあるけれど、改めて読んでみると、当たり前だけどきちんと教材として完成されているわけで。 正直その辺で売っている「作家になろう」とかそういう類の本を読むよりも、ずっと勉強になるんじゃ無かろうかと思った。 小学校2年生の教科書でこれだけの事が学べるのだとしたら、これがもうちょっと上の学年の教材だと、もっと深いところまで学べるのだろうか。 でも、学校の教材って、いつまでも基本だけをやっていくわけじゃないわけで。 そのうちただ「暗記すればいいもの」などと言った、「頭を使う」の意味合いが変わった勉強になってしまっているのじゃないかと思える。 それらを正しく学ぶためには、基礎基本が何より大事なわけで。 「小学校からやり直せ」とかいう声は、あながち間違っていないと言えるのではないか。 と言う事で。 私のこのクソ駄文も、もうちょっとまともな、読みやすい形になるようにするべく、娘の国語の教科書を熟読する必要性を感じた。 ただし、それは密やかに行わなくてはならない。 例え面白くないと感じているかもしれぬ学校の教科書であったとしても、これは紛う事なき娘の所有物である。 勝手に使うことは許されないのだ。 でも、「お父さん、小学校からやり直したいから貸しておくれ」って言うのはちょっと格好が悪いから、やっぱりこっそり読むようにしようかな。 っていうか、そういう変な頼み方をしないで、普通に「読みたいから貸して」って言えばいいだけの話なんだけどね。 まあ。 基礎を今からやり直したところで、私のクッソ駄文が僅かでも改善されるかというと、非常に怪しいところであるのだけれど。
by unnyo8739
| 2016-06-13 15:00
| 日誌叙情駄文
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